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奈良女子大学の「校史関係史料」は、『奈良女子大学六十年史』刊行に際して、 基本資料として用いられた会議録、学校長訓話等を中心とする、『校史関係史料 目録』中、「特」の符号を冠した番号の史料と、1985年頃、山田昇が整理 した大学昇格要求や戦後の大学昇格に関連する史料、及びその直後に倉庫に所蔵 されていた大量の史料を中塚 明(現・奈良女子大学名誉教授)の教示により山田が目録化し、 これを『奈良女 子大学八十年史』に採録した目録を骨子とし、さらに村田修三(現・大阪大学人文学科教授) を中心とする歴史 学講座において追加史料を加えて史料目録を完成させた成果として成立している。
これらの史料は、主に官立奈良女子高等師範学校の足跡を記す基本資料である。 本年は、創立九十周年を迎え、大学昇格後、ちょうど五十年になる。官立女子師 範学校の教育の実際を知る上で、貴重な資料が数多くあり、一つの学校の制度や 教育活動の実績を跡づけることのできるきわめて希少な史料でもある。それだけ に、むしろ、もはや五十年を経過した新制大学になってからの基本資料が、事務 機構の学部分散化等により、散逸の恐れもあり、今後、百年史編纂事業等との関 連で、早急に、大学創設後の基礎資料をも「校史関係史料」として整備する方策 を樹立しなければならない時期を迎えていると考えられる。
今般、史料の内、珍しい史料の一部を画像によってインターネット上に紹介す るに当たって、史料の全般的な概要について記しておくこととする。I 会議議事録・学校長の講話等の資料、国・文部省との関係資料
本学の「校史関係史料」には、会議録や学校長の訓話等の記録の保存も良く、 官立女子高等師範学校の足跡が残されている。
本学の前身、奈良女子高等師範学校は、東京女子高等師範学校に次ぐ、第二女 子高等師範学校として創設され、長い間、わずか二つの官立女子高等教育機関と して発展した。そのため、国、文部省とは、特別なパイプでつながれ、国や文部 省との特別な人的な関係や、また緊密な連絡往復のシステムも成立していた。
なお、この点に関しては、国立公文書館にも、「奈良女子高等師範学校」のフ ァイルがあり、本学からの伺い・願い・報告その他関係資料が保存されている。 (その目録は、『奈良女子大学八十年史』に収載しており、現在は、本学にもコ ピーがある)。
とくに、会議録によって、後発の女子高等師範学校としての、教育発展を求め ての種々の議論や、戦後の大学昇格に際しての苦悩等を知ることができる。
たとえば、大学昇格が決まった時の議事録には、奈良に二つの国立大学が創設 されることは、当時の占領軍政策の原則からはずれていたが、奈良学芸大学とあ わせて学長は一人ということで占領軍を納得させたという経緯が記されているな ど興味深い記録がある。
文部省その他官公署例規通牒等も、開学当初から、大学昇格までの基本的な事 項が保存されている。
学校長訓話概要綴は、昭和12年4月から昭和24年5月までの校長訓話しか 保存されていないが、開戦から、敗戦の時期を含み、また新制大学として認可さ れた時期等も含んで、それぞれの時代状況をよく映し出した校長訓話が生々しい 記録として残されている。II 本科の教育に関する諸史料
野尻精一は、初代校長、槙山栄治は、二代目校長であるが、その足跡と想い出 を綴った資料、『開校二十五年』誌、及ぴその際の講演会記録等々多くの記録が 残されている。また、教務日誌、学科課程等、教育研究部の活動、試験問題、体 育・身体検査等、訓育関係史料、入学者選抜、生徒状況、特別授業日誌、課外稽 古日誌、卒業生状況等の諸記録が保存されている。訓育指導例や、生徒訓なども 残されており、貴重な史料となっている。
これらの教育活動の資料の中でも、生徒自身が、書き残した「学級日誌」「学 級週録」と、「修学旅行記録」が大量に保存されていることは興味深い。「学級 日誌」は、大正2年9月以降は、「学級週録」となるが、開学まもなくの時期か ら、昭和24年まで続けられた。一部、散逸した部分もあるが、大部分保存され ている。
「学級日誌」には、たとえぱ、修身の授業や、遠足の記録など、また、校長・ 来賓の訓話や、試験問題などまで記されている。5月1日の開校記念式典に、校 長式辞で、「女子教育の変遷」、「当校設立の由来」の述べられたことなどが記 されていて、興味深い。また、「身体を大切に」ということが教育の中心に据え られており、再三注意が与えられた様子なども描かれている。
「修学旅行記」は、各部(後には、各科)の専門性を活かしたユニークな記録 を残しており、旅行中の見聞が克明に記されている。また、旅行先の選定にも、 時代の推移変化が反映されていて興味深い。
明治44年の「修学旅行京都見聞記録」などは、挿し絵スケッチ入りの作品で、 見聞総記・史跡録・神社録・仏閣録・陵墓録・風景記・風俗記から成っているが、 風俗記には大原女風俗との出会いの記録が対話の形で生き生きと記されているな どの力作である。また、大正3年の、博物家事部による「臨海実験記録」をみる と、三重県志摩郡鳥羽町で臨海実験を行ったときの記録であるが、実習内容は、 臨汀採集、プランクトン採集、海女による底生生物の採集、ウニの人工授精など であった。記録は、実験内容にとどまらず、旅行の道程、そこでの生活のすべて が詳細に生き生きと描かれている。この記録は、動物教室に保存されていた。稲 葉名誉教授を経て奥村教授から提供されたものである。III 本科以外の特別な制度組織に関する資料
長い歴史の中で、中等学校女子教員の養成を目的とする本科の外に、様々な教 員養成課程、臨時教員養成施設を設けて、それぞれが歴史的な役割を果たしつつ、 発展してきた。とくに戦没者寡婦教員養成所、外国人受け入れに関する特設予科 などは、ユニークな施設であった。これらの関係史料が完全ではないが、かなり 保存されている。
(1)保姆養成科は、大正9年に設置され、長期にわたって指導的な幼稚園保姆養 成のために機能した。
(2)第三臨時教員養成所は、大正11年に付設され、昭和7年まで存続したが、 3年間で中等学校女子教員を養成するシステムであった。
(3)戦没者寡婦教員養成所は、当時、傷痍軍人教員養成所と並んで、昭和14年 から全国各地の師範学校等につくられた。奈良女子高等師範学校では、昭和14 年に、特設幼稚園保姆養成所を設置し、昭和19年には、保姆養成所の代わりに 特設中等教員養成所を付設した。
(4)特設予科は、開学初期よりあった外国人特別入学制度を発展させ、外国人及 び植民地人(とくに中国の女性たち)に進学の機会を与えるものであった。
具体的には、大正5年外国人特別入学規程により外国人及び植民地入学生を正 科生として取り扱うことが出来ることとなった。大正14年には中国留学生の予 備教育のため特別予科を置き、後に特設予科と改めた。昭和2年から、特設予科 修了者を本科生として入学許可することとなった。IV 母の講座(成人婦人講座)
本校は、成人教育、社会教育にも大正14年から関わり、とくに文部省と大阪 府・大阪市が共同で行った成人婦人講座、後に「母の講座」と称する公開講座に 関しては、奈良女子高等師範学校が中心的な役割を担ったことは特筆に価する。
母の講座の趣旨として、母性の自覚、「母の品性」の向上、母性の発達と堅実 なる家庭の樹立などをあげているが、毎年100人程度の出席者があり、聴講者 のアンケートも実施する等、講座内容の改善についても努力した。
参加者の年齢別、学歴別、職業別統計も明確にされているが、中等教育修了者 のみならず、小学校卒の聴講者も含まれ、また、準備の課程では、女教員・既習 聴講生・婦人会・処女会等へ働きかけたことなど積極的に取り組まれた。
昭和期に入って、ずっと続けられ、戦時中一度抜けているが、昭和20年には 再開されている。また、当初、大阪市内で、始められたが、後になると、本校で ある奈良女子高等師範学校で行ったり、奈良県の南部の地域で講座を開設したり している。V 大学創設関連史料
奈良女子高等師範学校の時代にも、長年にわたって、女子師範大学への昇格運 動が行われたが実らなかった。その関係史料も、たとえば槙山校長時代から、い くつか見いだされる。その後、敗戦後の教育改革によって、女子高等師範学校を 母体として大学創設が具体化していくこととなり、1946年の女子帝国大学案 (4学部案)から始まり、6学部案、3学部案等と、推移していく様子もそれぞ れ、検討結果が残されている。また陳情書や、占領軍に提出した英文の資料等も 含まれている。新制大学発足当初は、文学部と理家政学部の2学部で発足し、後 に理家政学部は、理学部と家政学部になった。
昭和21年の奈良女子帝国大学創設趣意竝組織は、4学部案であり、昭和23 年の奈良国立大女子大学創設案は、6学部案であるが、これが折衝の過程で、次 第に3学部構想へと縮小され、結局、2学部で発足することになった。