縦24.7cm、横30.6cm。楮紙薄様。巻子仕立て一巻。五月十四日付。署名「世阿(花押)」。宛名「金春大夫殿御返報」。
「金春大夫」は氏信、後の禅竹のこと。文中に「して御持ち候事は、はやとくより印可申て候」と禅竹が一座の大夫としてシテを演ずることを以前から許されているとあるので、世阿弥が禅竹に『拾玉得花』を与えた正長元年(1428)の数年後かとも推定されている。
正長元年に世阿弥は六十六歳、禅竹は二十四歳。「仏法にも宗師の参学と申は得法以後の参学とこそ補巌寺二代は仰せ候しか」とある補巌寺二代は奈良県田原本町味間の禅寺の二代、竹窓智厳。「印可」という用語などと合わせて、世阿弥における禅の影響の大きさを示している。
なお、現在当書状の包紙とされているものの上書きには「春御方へまいる 申させ給へ きやより 世阿」とある。「春御方」の「春」は金春を指す。「きや」とは禅竹に嫁した世阿弥のむすめであり、当包紙は本来、法政大学能楽研究所が所蔵する別の書状のものであることが知られている。
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