奈良女子大学 奈良地域関連資料
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元興寺極楽坊縁起繪巻

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資料提供:元興寺
元興寺極楽坊本堂
  『元興寺極楽坊縁起絵巻』 解説   元興寺文化財研究所 高橋平明

   巻子装 紙本著色 法量 上巻 縦 33.6 長 1141.0
             下巻 縦 33.6 長 1027.6

 元興寺は蘇我馬子が飛鳥の地に創建した飛鳥寺(法興寺)がその前身である。
 日本最初の本格的仏教寺院、すなわち別名の示すとおり「法興」の寺の由緒から、平城京への遷都にともない、養老二年(718)に寺籍を移して平城京左京外京の現在地に新造された。
 猿沢池と三条通りを挟んで北には興福寺が位置する。
 天平の当時、その金堂本尊は弥勒如来であり、三論宗と法相宗の学問拠点として優秀な僧を輩出した。
 その学問僧たちが寄宿した堂舎が僧房なのであり、「元興寺極楽坊縁起」に登場する元興寺三論学僧の智光と頼光(礼光)は同僚であったという。
 智光法師には「無量寿経論釈」が知られ、阿弥陀如来の西方極楽浄土への信仰にかかわる先駆的著作として、恵心僧都源信の「往生要集」などに引用され、平安時代中頃から隆盛となる阿弥陀浄土信仰において、その存在は再評価された。
 そして、智光法師が感得したとされる阿弥陀極楽浄土の変相図、すなわち「智光曼荼羅」にまつわる説話は慶滋保胤(?〜1002)の『日本往生極楽記』に記されて、以後智光の住んだその僧房は阿弥陀の極楽浄土のさまを描いた智光曼荼羅を本尊としたが故に「極楽坊」とよばれて阿弥陀信仰の聖地のひとつとなる。

 元興寺の伽藍堂舎は律令体制の衰退にともない、徐々に退転を余儀なくされたが、その旧境内地には庶民の町屋が建てられて「ならまち」が中世以来成立する。
 そして阿弥陀信仰が庶民層へとひろがると、その庶民の信仰により極楽坊は護持されてきた。
 残念ながら智光感得の曼荼羅原本は宝徳三年(1451)の土一揆に際して焼失してしまったが、曼荼羅堂(極楽坊本堂)と僧房の一部(禅室)とは国宝建造物として現存し、近年世界遺産に登録をみた。

 『元興寺極楽坊縁起絵巻』は元興寺極楽坊とその本尊である智光曼荼羅図の由来について、十九段からなる絵と詞により説くもので、上下二巻からなる。
 下巻の奥書によれば、元禄十四年(1701)、旧来の縁起が傷んだため、元興寺住職であり西大寺長老でもあった尊覚律師の需めによ り、安井門跡であった道恕(1661〜1733)が新調に及んだことを記している。
 道恕は画を好んで狩野永納に学び、人物花鳥画に秀いでていたという。詞書の筆遣いは道恕の能書家ぶりも良く示しており、享保 5年(1720)には奈良・與喜天満宮大鳥居の銅製額銘も揮毫している。道恕は後に第百八十九代東寺長者となっている。
 一方、絵様は金泥彩色を各所に施して美麗に仕上げられ、画風は軽妙で親しみ易いが、絵師の名は残念ながら伝えられない。しか し、中世に遡る伝統をもつ南都絵所に関連する絵師が想定されよう。

 上巻の内容はつぎのとおり。

(1)天平時代に三論宗の高徳とされた智光と礼光の二法師が元興寺にいたこと。
(2)智光法師は行基が朝廷に重用されることを嫉妬したため、頓死して地獄に堕ち、十日のち蘇生したこと。
(3)智光は地獄にて閻魔王から行基をそしり妬んだことを責められたことなどを弟子たちに語り、懺悔して行基に謝罪したこと。
(4)同僚の礼光法師は年老いて無言となり、その理由を語らないうちに臨終を迎えたこと。
(5)智光法師がその転生したところを知りたいと祈誓すると、夢中に礼光法師のもとに至ったこと。
(6)礼光法師が阿弥陀の極楽世界にいること、そして智光法師がこの世界に往生する秘訣を阿弥陀如来に問うと極楽浄土の観相を教えられ、如来の右手の掌に浄土のさまが示されていたこと。

 下巻の内容はつぎのとおり。

(1)阿弥陀如来は智光法師が極楽浄土に来た証拠として舎利を授けたこと。
(2)智光法師は夢から醒めて浄土のさまを蓮糸織の料紙に描かそうとしたが、良い画工に巡り合えずにいたところ、童子が現れて七日 にして描き終えたこと。
(3)その童子は阿弥陀如来の左脇侍の観音菩薩の化身であり、智光の臨終には来迎する旨を言い残して西方に飛び去ったこと。
(4)一度この曼荼羅を拝すれば重悪人でも極楽往生は疑いなく、世に智光曼荼羅といわれるものであること。
(5)智光法師はこの図を感得した後、曼荼羅堂を建立したこと。
(6)その堂内に智光礼光像を安置し、中央の宝龕に曼荼羅を図して、極楽浄土観相の道場とし、智光法師は生涯この図を観して天平十九年入寂を果したこと。
(7)数百年ののち傷んだ伽藍は西行法師が天井を再興し、東南の柱には巨勢金岡が龍王像を描いて南庭の池の毒蛇の害を抑えたこと。
(8)伽藍の北の室には礼光法師の住房、南の室には智光法師の住房があっここと。
(9)智光の住房の西の端には春日明神の影向する間があり、毎朝、曼荼羅と舎利とを守護したこと。
(10)弘法大師は春日曼荼羅を自画し、さらに自身の姿をも刻んで現したこと。
(11)飛鳥の本元興寺(飛鳥寺)から移したという聖徳太子殿があり、太子十六歳の像を安置し、これを拝んだ者に浄土三部経が授けられたという不思議があったこと。
(12)西方極楽浄土に往生を願う行者が多くこの寺に入住したこと、西大寺の興正菩薩叡尊が当寺に入って律院となり、道種律師が不断念仏を再興したこと。

 

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