吉野曼荼羅図

重要文化財指定 西大寺所蔵 (奈良国立博物館寄託)

 画面中央に火焔を背負い、片足立ちで岩上に降臨した蔵王権現を大きく描く。足元にいるのは、その姿を感得した役行者と従者の前鬼後鬼。役行者一行の上には、束帯姿の男神が位置する。これは金精明神、吉野山の地主神だ。蔵王権現をはさんで向かって左方に座す三面の赤神は牛頭天王。その下方、矢を手にするのは八王子神。さらにその下ではそれぞれ若宮を連れた勝手明神(武将天部形)と子守明神(女神像)が向かうあう。最下段では六角燈籠を中央に置き、向かって左方に左抛明神、右方に天満大政威徳天神を配す。
 一見、曼荼羅風の幾何学的な配置だが、最下段の六角燈籠は、実際に蔵王堂前に安置されていたもの。本図には具象と抽象が混じり合っている。 その観点から注目されるのは、画面最上段。截金線で区画を設け、そこに山岳風景を描く。山中には大峰山系の八大童子−−角髪を結った童子四体、鬼神四体−−が、空想上の姿であらわされる。彼らと共に、かつて山中に実在し明治期の神仏分離で廃寺となった安禅寺の多宝塔の屋根も描かれる。空想と現実とを綯い交ぜにしつつ、ここが吉野奥院であることを示している。
 吉野信仰は蔵王堂を中心に歴史的に展開されてきたが、伝説上そもそも信仰の始まりは奥院にあったといわれる。鎌倉時代末期、護良親王は吉野に入り幕府軍と戦った。このとき親王が城を構えたのが奥院であった。本図上最上段が吉野奥院を描くのは、こうした信仰と戦闘とが関連するか。
 本図は、護良親王たち南朝方が怨敵調伏・幕府調伏を蔵王権現をはじめとする諸尊に祈願する目的で制作されたとみる仮説が提示されている。もしそうであるなら、護良親王は討幕活動の過程で真言律僧とも結びつきを得ていることから、そうした関係から西大寺にこの絵が伝来したと推察される。
 対比の強い明確な色使い、やや固い諸尊の身体表現、諸尊の顔貌表現がたとえば元享三年(1323)作の大阪・四天王寺蔵聖徳太子絵伝や兵庫・真光寺蔵遊行上人縁起絵巻の人物描写とよく似ていることから、技法表現からみても、本図制作時期は南北朝の騒乱期と考えて大過ない。
(参考/行徳真一郎「奈良・西大寺所蔵吉野曼荼羅図について」『ミュージアム』572号、2001年)

吉野曼荼羅図

吉野曼荼羅図(重文) 一幅