吉野曼荼羅
金峯山寺所蔵
吉野曼荼羅(南北朝期写) 一幅 絹本著色 138.2×40.0cm
古来、吉野は神仏の霊地として名高い。白鳳時代(7世紀後半)役行者が大峯に籠もり衆生救済の祈りを捧げたとき、まず釈迦が顕現し、続いて千手観音、弥勒が相次いで姿を現した。しかし役行者はそれらを嫌い、最後に蔵王権現が顕れると「末世の人々には忿怒の守護神こそふさわしい」と述べ、これを本尊として金峯山寺を開いたという。伝説であり史実ではなかろうが、しかし『大日本国法華験記』巻下には嘉承二年(849)に示寂した転乗法師が生前、金峰山の蔵王大菩薩を参詣した話が載せられているので、遅くとも平安初期(9世紀)には実際に蔵王像は奉られていたことが知られる。その後、昌泰三年(900)と延喜五年(905)年に宇多天皇が吉野を訪れたのをはじめとし、藤原道兼、藤原道長、後二条師通、白河院、鳥羽院、後白河院、後鳥羽院など天皇貴族がこぞって巡拝をなした。天正二十年(1592)頃建立の現・蔵王堂には七メートルを超える秘仏本尊蔵王権現が三体安置され、今に伝わる。
本図は、蔵王権現の姿を画面上段中央に描く。その巨体を足下から前鬼後鬼を従えた役行者が見上げている。役行者の左右には頭上に牛頭を乗せた牛頭天王と団扇を持った女性形の率川明神、その下の屋形中には若い金精明神と年長の佐抛明神、甲冑を着け勇ましい勝手明神と片膝を立てくつろいだ女性形の子守明神、最下段には笏を手にした天満天神と弓を持つ八王子神、そして最上段には大峯八大童子が描かれる。
神々の顔貌は性別や年齢に応じて個性的に描き分けられている。四棟の屋形もそれぞれ形式を異にし、その奥壁には樹木や水波など画中画が細密に描き込まれている。こうした細部描写が、今回撮影された赤外線写真で、はっきりと確認できるのは興味深い。
その赤外線写真を精査してみると、蔵王権現の全身をかたちづくる肥痩のある線、男性神の束帯の角張った硬い描き方、緑青地に墨線が多用された山水描写などが目につく。こうした表現上の諸特徴から、本図は南北朝時代(14世紀)作と推定される。
吉野曼荼羅(室町期写) 一幅 絹本著色 92.2×39.2cm
画面上方中央、蔵王権現が描かれている。その姿は火焔頭光を背負い、左手をまっすぐに伸ばした特異な図像である。左右には役行者と雨師明神、その下には金精明神と三十八所明神、裸形の牛頭天王と束帯を着した天満明神・女性形の子守明神と幼い若宮、最下段には大南持と馬に乗り若宮とともに歩みを進める勝手明神の姿が描かれる。
各尊像には短冊型が付されている。今回撮影された赤外線写真により、そこに本地仏の名が記されているのが確認された。すなわち役行者=不動、雨師明神=如意輪、金精明神(記入無し)三十八所明神=観音、牛頭天王=十一面、天満明神=大威徳、子守明神=阿弥陀、若宮=聖観音、大南持(判読不能)、勝手明神(短冊型無し)。こうした神と仏の対応は、中世・吉野をめぐる神仏習合思想の実態を探る上で貴重な史料となろう。
本図の表現に目を向けると、いずれの尊像も頭部が大きく、それに比して身体は萎縮したように小さい。こうした身体描写は室町時代(15世紀)作の仏画や絵巻物にみられる特徴である。現存の吉野曼荼羅には、鎌倉時代に遡る西大寺本、延元元年(1336)の銘文を有する如意輪寺蔵「蔵王権現像」厨子絵、そして金峯山寺本(南北朝時代写)があるが、本図はそれらに続く優品と位置づけられる。
こうした諸作品は儀式法会の際に奉掛し、本尊として礼拝された。本図もまた同じ用途に供されたと思われるが、画面下方の勝手明神と若宮が騎馬姿であらわされ、なにかの物語の一場面のようであるのは他本と大いに異なる。あるいは本図は曼荼羅でありながら、吉野の神話を伝えるための説話画として、絵解きされる機会があったかもしれない。